タイ映画 レビュー(本・映画・ドラマ)

「デュー あの時の君とボク」 ③ 疑問の検証とエンディングの考察(ネタバレあり)

2021年8月27日
Chiangmai

タイ映画「デュー あの時の君とボク」について、最後の記事になります。

今回は完全ネタバレ。作品を見て分かりにくかった箇所のおさらいと、ラストシーンについての私の個人的な解釈・考察を書きます。

私は本作をNetfix(タイ)でタイ語音声と英語字幕で観ました。映画館の日本語字幕で観られた方とは、理解にズレがあるかもしれません。通しで3回、また気になる箇所は何度も観ました。

はじめに

この「デュー」は、状況説明的な台詞は極力省かれたハイコンテクストな映画。何年、何月のことなのか、時々テロップが入るだけ。音楽、美術、演出の細部に意味があり、観客は映像の隅々から状況を推測することになります。

90年代のLGBTQの立ち位置、音楽、ファッション、カルチャーなどの時代性に関わること、北タイの地理的な状況など。映画の理解に役立ちそうな情報を以下の記事にまとめました。ぜひ、こちらを先にお読みください。

ポップとデューのタイムライン

まず、ポップが駅に向かい、村を出ようとするまでの、ポップとデューの話の時系列を整理します。

1996年8月:雨期

・デューが転校してきた 
・矯正プログラム
・チャチャチャ、デュー「女役ができる、おとこ」と発言
・体操着を返却した袋には「friend」のプリント

1997年2月:乾期(冬)

・ひざまくらして、3Dの絵を見る
・小屋に文字を刻んだのは、恐らくこの時期(服装と会話から推測)
・デューはパンノイ村にまだ馴染めず。ポップをチェンマイに誘う

1997年3月:暑期の始め(夏休み)チェンマイ

・塾、翻訳コンテスト
・翻訳中、バンジージャンプのパンフレット(冒頭シーンもこの時)
・バイクの件で喧嘩
・雨の電話ボックス、仲直り→キス
・シャワールームの二人、同室のパンノイ村の同級生に見られる
・ポップは先にパンノイ村に帰る

1997年5月:暑期の終わり〜雨期の始め(新学期)

・教室で喧嘩
・ポップはデューの代わりに矯正プログラムに参加
・駅のシーン

ラストシーンまでの疑問点

ラストシーンに到達するまでに、わかりにくかった箇所や気になった箇所を考察していきます。

チェンマイでの二人の様子が村でも噂になったのはどうして?

Tata Yongの曲をBGMに、ポップがバイクの後ろにデューを乗せ、何人かの男女と鉄橋を渡るシーン。ここから学校の教室でポップとデューが喧嘩する前までのシーンが、チェンマイで起こったこと。

教室で近くの席に座り、バスルームから出てくる二人を目撃した男の子は、パンノイ村の同級生。(だから後に村でふたりの噂が広がった)おそらくホテルの同じ部屋を3人、もしくはそれ以上でシェアしていました。目撃された翌日、夜明け前にポップは一人バイクで村へ帰ります。

コンテストで選ばれたのは誰?

あの曲を翻訳をしたのはデューですが、コンテストで名前を呼ばれたのはポップ。あの場にいなかったポップの代わりに、同郷の女の子に促され、デューが教室の前に出て読み上げました。

短期間の塾での話なので、おそらく講師は生徒の顔を把握してなかったのでしょう。デューがポップの名前で提出したことは、大人になったポップがリウに明かしています。

村を離れた後のポップは?

大人になるまでの生活ははっきりと描かれていませんが、会話などからこのように推測しました。

・高校三年の時に、バンコクの高校に編入 
→ リウの台詞で明言

・ニュージーランドにも行った
→ ポップがリウに打ち明けた、「デューが提出した課題が役立った」話から推測

・両親と和解して、ポップは異性愛者として生きてきた
→ 村を出て2年後に帰省した際の車の中、親族との会話から推測

おそらく、親には同性愛であることは誤解だ(一方的に好かれていた)と説明して和解。そのまま親元を離れ、バンコクの大学で教員免許を取得。当時のタイの教育学部は同性愛者の大学入学を禁じていた時期になります。

大人ポップがリウに言った「デューとの記憶が人生で唯一の幸せな記憶だ」というセリフから、デューを手放した後のポップの人生は、本来の自分を押し殺し、適齢期で異性と結婚し「社会的に正常」とされる人生を送ったと思われます。

もちろん、単純に、デューの他に愛する人(性別問わず)と出会えなかっただけの可能性もありますが。

・オーンと出会い結婚。バンコクで事業を営むが失敗

そして、パンノイ村へと戻る事になります。

オーンにとってポップはどんな人?

ポップを演じるWeirさんは、タイでトップ3に入る「ハンサムなタイ人俳優」といった存在。大人ポップもとても魅力的な人として描かれています。高身長の超イケメン。穏やかで、おそらく他の女性に興味を見せたり、浮気をしない…。事業が失敗しても、それなりに頼れる実家もある。オーンにとっても、献身的になるには充分な相手だったのでしょう。

でも、彼女自身は、ポップが彼女と同じようには自分の事を愛していないことを以前から薄々は感じていたはず。幸せを感じていなかったポップがパンノイ村で懐かしい写真を眺める時に見せた表情など、ちょっとした違和感が積み重なり、リウの件で確信。それでも関係を続けようとしたものの、最後のIGLの件で限界に。

最後、自分ばかりを犠牲にした生活を捨てて、バンコク行きのバスに飛び乗ったのは、とても納得できました。

リウの部屋に貼ってある3Dの絵

リウの部屋に飾っていた3Dの絵。私は画面を停止しても見ることができなかったのですが、ハートの絵だったという声が複数ありました。

映画館のスクリーンでなら、見えるのでしょうか?

ソーセージの野菜のなぞ (追加)

少なくとも00年代後半までは、タイのセブンイレブンではハンバーガーやソーセージなどのホットスナックを買った後は、セルフサービスでレタス、トマト、きゅうりなどの野菜を加えたり、ケチャップをかけるスタイルでした。今の10代の子たちは、そのことを知らないか記憶にないことがほとんど。

映画でも現代パートの学生たちはセブンイレブンでソーセージを買っても、野菜が貰える(貰えた)ことを知りません。その中で、リウだけ「野菜がないソーセージ」を知っており、大人ポップはリウの中に90年代のデューの記憶があることを確信します。

尚、小屋のシーンでデューはおそらくソーセージの付け合わせの野菜を食べているシーンがあります。

ラストシーンのあらすじ

おそらく映画を観た人が、一番考えてしまうのが結末のこと。誰だったのか。なんであの決断だったのか。

監督の中では明確な答えを設定しているものの、観た人が自由に解釈できる余白を残したそうです。

最後のリウの中身は?

ラストシーン(バンジージャンプ)直前の、最後の海辺のシーンと電車のシーン。

車窓に映るリウがデューになっていたように、ここより後のシーンのリウの魂は完全にデューになっていたと解釈しました。

バンジージャンプのシーンの台詞(原文と翻訳)

最後のシーンをNetflixの字幕(英語・タイ語)を元に書き起こすと、こうなります。

大人のPhopと女子高生Liew。
バンジージャンプをする寸前、見つめ合い、抱き合う。

Phop「下は終わりじゃないよね?」
ข้างล่างนั่น จะไม่ใช่จุดจบใช่ไหม

Liew「違う。(続く)道があるよ」
ไม่หรอก มันจะมีทางไปต่อแหละ

命綱を外し、手を繋いでバンジージャンプ。湖にダイブ。

【字幕】(スタッフの叫び声)

二人は、水面に潜り、その後、明るい水面の方に浮かんでいく。

水中の二人は誰?

明るい水面にむかって泳ぐシーン。

初見では白い服がひらひら透けて、白いワンピースのリウと大人のポップに見えて、二人は生き残り、現在のポップとリウでやり直す…といったストーリーなのかな?と単純に考えたものの、色々なシーンが腑に落ちず。また、あの高さから水面に打ち付けられると、即死でなくても、動けずに重傷、または溺死するのでは?と疑問を持ちました。

そして、2回目はこう見えました。

・ジャンプ前のリウの服装は白い厚手のTシャツとデニム
・水中の2人には、体格差がない
・白いひらひらしてる服は、デューの白いシャツ(学生服)であり、海辺のシーンでの服装
・片方のふわっとしてる髪の毛は、リウのロングヘアにしては短すぎる

ということで、あの二人は若いポップとデューだと思っています。

ただ、解像度の限界で、何度見ても100%の確信は持つことができず…。

ぜひ、映画館の大きなスクリーンでご確認ください。

自死の意思の有無

ジャンプした先は水面とはいえ、あの高さ。

字幕に「(スタッフの叫び声)」とわざわざ書かれていることからも、命綱を外して飛んだら結果を見ずとも物理的に即死することは、誰も理解している状況だったと思います。

タイトルの意味

タイ語のタイトルは「 ดิว ไปด้วยกันนะ」(デュー・パイ・ドゥワイ・ガン・ナ)。

「デュー ・ 一緒に行こうね」という意味。

デューは「ここじゃないどこか」「ここでなければ、どこでもいい」と繰り返し言っていましたが、二人はどこへ行こうとしたのか。死後の世界、または転生した次の人生なのか。とても意味深なタイトルですよね。

もしタイトルを「デュー、一緒に行こうね」と、ポップが誘っているように読んだとしたら…。大人になりたくないポップがデューを連れていった、というようにも見えました。

最後の決断の理由(仮説)

そもそも異性として生まれ変わったリウとなら、以前の二人(男性同士)より障害が少ないのでは?と思った方もいるはず。

二人が命綱なしにジャンプした理由に、どんな可能性があるのか。

死ぬことを想定していた前提で、複数考えてみました。

①「禁断の関係」は現代でも障害が多いから


単純に、転生して心機一転。一緒に生まれ変わり、新しい関係でやり直したい。

・・・

そもそも、教え子と教師の恋愛はタブーなのか?という問題。

現代の話といえ、パンノイ村は保守的なまま。そして、あんな光景をIGL(インスタライブ)で流されたら、確実に全国レベルのゴシップネタ。

昔のタイでは、教師はもう一人の親のように尊敬される立場だったそう。(=無条件に、敬わないといけない相手)教師が教え子と関係することは、日本と比べると、タイの方がより受け入れ難いものではあるようです。

村を出て、生活を新たにスタートさせるにも、なかなか困難。でも、この選択を選ぶには、動機が不十分に感じました。

② リウが女性として生まれてきたから


ポップが好きなのは、リウの中にいるデューの魂。でも、体は男性のデューが好き。リウは体も性別も変わったけれど、ポップは昔のまま。だから転生に賭けたい。

・・・

あくまで個人的な感想ですが、ポップが家族や社会的地位を全て失って、ようやく一緒になることができた人(デューの魂)の体が異性だという事は、皮肉な状況だと思いました。

少なくとも90年代よりもLGBTQへの理解が進んだ現代。デューが男性として生まれてきてくれた方が、ポップにとって好ましいことだったのでは?

ポップがデューに惹かれたのは男性だったからか。異性にも惹かれたことがあったのか。明確に描かれておらず推測なりますが、大人になったポップがリウの中にいるデューを見つけた後も、リウの肉体には性的魅力を感じていなかったように見えました。

映像としても、リウは表情にフォーカスしたショットが多く、女性的な肉体美に焦点を当てたシーンがなかったように私には思えましたが、一方、男性のデューは筋肉、汗、半裸などの肉体美がしっかりと描かれていました。また、リウの中にデューを感じた時にだけ、ポップが顔をきらきらさせていたのも印象的でした。

この場合、リウの人格はどうなったのか…。とても気がかりです。

③リウまたはデュー自身が女性であることに違和感がある


リウ自身が元から、またはデューのこころが、女性の体を受け付けなかった。男性になりたかった。(だから転生)

・・・

リメイク作品ですが、これは現代版の話なので、リウの性別や本人の性認識も、見た目のまま受け取る必要はないのかな?と、考えました。

リウの部屋に飾られていたものは、レトロな90年代のものであり、タイの男の子が好みがちなテイスト。デューの魂が目覚める前からあのような趣味だったのか、後から急に変わったのかは分かりませんでしたが、(タイの基準から見て)とても少年らしい部屋に見えました。

リウが先輩を「好きになりたかった」という台詞。もしこれをデューでなく、リウ自身が言ったとしたら。リウの記憶や感情が消えた訳でなく、リウ自身の心は男性のままで、体は女性だったことに気付いたとしたら。

デューの記憶を自覚し、あのどん底の状況で、転生して生まれ変わりたいと思った。そんな可能性もゼロではないのかな?と考えました。

この場合は、車窓のシーンや水面に向かったのがデューだった理由は、魂の願望としての姿だった、ということになるのでしょうか。リウの魂はなかったことにして欲しくないので、なにかしらデューと折衷して残っていたことにできないか….まだ色々と考えている最中です。(中途半端で、ごめんなさい)

④ リウが戻る前に転生したかった


リウの記憶はあるが、一時的に前世のデューが乗っ取った状態。リウの記憶が戻る前に、ポップと転生したかった。

・・・

これは、あまりにリウが浮かばれないバッドエンド。あくまで、可能性がゼロではないので書いておきます。

⑤ 二人の関係を、一度完結(完成)させたかったから

転生したあとの運命に賭けた訳でなく、デューの姿形はなにであれ、一度、同時に終わらせることで、二人の関係を何にも邪魔されず、成就させたかったから。

・・・

これは、以下のエピソードをふまえての仮説になります。

エンドロールの名前

エンドロールの最初に出てくる「In Memory of Noppadon khanarat 1989 – 2019」は、公開前に亡くなった撮影スタッフ(cinematographer担当)の名前であり、監督の恋人だった人物。彼が悪性リンパ腫により亡くなったことが、作品にも大きく影響を与えていると監督は公言しています。

また、映画については「純愛を描いた作品」と何度も強調した上で、以下のように発言しています。

「love of siam」は20代前半で書いた話。愛に希望があった。

38歳で書いた「デュー」は、愛を失った人の話。
私は自分の話しか作れない。

純愛の先は、何が起こるかわからない(死ぬかもしれない)けれど、死ぬとそこで完璧な愛が完成する。

参照: https://www.youtube.com/watch?v=k2YD0oEm0-s

この話を知って、これまで長々と考えていた性認識や転生の話は捻くれてた意見なのかも?と思えてきました。

シンプルに純愛と考えれば、二人は性別に関わらず、どんな形で出会っても惹かれ合う運命。

ただ、このままポップとリウとして生き続けたとしても、一方が先に亡くなったり、何かの理由で二人の関係が終わる可能性があります。

だから転生後に賭けたわけではなく、転生した後はどうであれ、一緒になることができなかった幼い二人の魂を、人生を一緒に終わらせることで、成就させたかった。それが瞬間的なものか、あの世の話なのかは分からなりませんが、一旦、きちんと結ばれること自体に意味があったのでは?

ただし、この説の場合、監督の心情がとても心配ではあります。

未解決の謎

・リウ自身の人格はどこへ?何か、救いがあると良いのですが。

・そもそも自殺して、幸せになれるの?

タイ仏教で自殺はタブー。死後の世界では、自殺し続けるシーンをループし、転生後も自殺を繰り返すことになるという説を聞いたことがあります。

タイではこの概念のため、自殺は比較的少ないとの見方もあるようですが、一方、転生を願っているのような恋人や家族との心中、無理心中のニュースもめずらしくありません。

もし、亡くなった二人が来世で無事会うことができたとして、果たして幸せになることはできるのか?残念ながら、私はバッドエンドを考えてしまいます。

追記:⑥ 既に複数回、転生している説

長々と書きつつも納得がいってなかったのですが、本記事を投稿した後に、こちらのツイートを拝見して、全てが腑に落ちました。

【引用】
デューとポップも、「数度目」だった可能性もあるんじゃないかなー。テヒとインウは結構明確に「数度目」だったと思うし。あの二人も成就できない幼い愛を途中で断ち切ることで延々と繰り返して、でも「それでいい」って満足してる魂なのかもしれない……
@yuyuyumag7

書かれたのは、ゆう(유우)さん 。オリジナルの「バンジージャンプする」(韓国)を推すTwitterアカウント(@yuyuyumag7 )を運営&創作活動をされている方です。(引用を快諾して頂き、ありがとうございます!)

韓国版では結末の選択理由がいくらでも考えられるものの、「数度目」であることを示唆する箇所があったことを教えてもらいました。台詞で言及したり、監督・制作側が明かした訳ではなく、よく観ると気付くそう。

(韓国版、私は残念ながら未視聴です)

・・・

どんな姿形でも、ただただ幼い2人が出会って惹かれ合い、結ばれず、命を断ち切る。そして次(来世)に行き、出会い、繰り返す。そんな純愛の話。

この説を取るなら、本筋の二人の話はとてもシンプル。性別とか背景とか関係なかった…。(私が考えすぎた&純愛に不向き過ぎた…)

また、韓国版では「男女でないと幸せになれない」かのようなストーリーに、批判の声があったそう。そこで敢えてタイ版は「男女であっても同じ結末にした」可能性のご指摘。そして、エンディングの紐なしでのバンジージャンプ自体が「比喩的な物、魂の浄化的な意味合い」で2人の心象風景だった、という解釈もあることを教えていただきました。

そうなると、あくまで気持ちの区切りとしてのジャンプで、ポップとリウが生きている可能性(その後の二人が一緒とは限りませんね)。亡くなったけど、明確な意思はなかった可能性。他にも色々と考えられますね…。

・・・

ひとまず、私の中では⑥ということで落ち着きました。でも、受け取り方は観た方の自由!色んな解釈を楽しむのが、この映画の醍醐味のひとつだと思うので、映画を観られた方はぜひどこかで見解をシェアして頂ければ嬉しいです。

私も時間を置いて、また観てみます。

追記:お母さんのその後

矯正キャンプに送るように通報したものの、最終的には全てを受け入れてでも一人息子を失いたくなかったデューの母。デューが亡くなった後のことは明確に描かれておらず、モヤモヤしていたのですが、コメント欄で「デューのお母さんがリウの彼氏として転生説」を教えて頂きました。

現世の電車の窓に映る子どものデューとポップのシーン。ポップの「Topとは?」の問いに、デューは「(今世で)ふたりとも失敗しちゃった」と言ってましたが、なんとか上手く付き合いたかったけどできなかったリウと彼氏の関係性は、お母さんとデューの姿が重なります。計算上は可能です。

もちろん転勤が多い公務員だったので、単に引っ越した可能性もありますが…。次は幸せになって欲しいですね。

追記:デューが最後に着ていた服

デューがバイクに乗って駅へ向かうシーン。その時にデューが着ていた赤いフーディーには「DESTINY(運命)」の文字が。その後、後から来た車に轢かれます。こういう運命だったんですね(号泣)。見返して、鳥肌が立ちました。

キャッチーな広報 KAZUMAさん(@terapiiii)に教えて頂きました。ありがとうございます!

(2022年1月15日追記)

最後

以上、長々とお付き合いいただき、ありがとうございました。

コメント欄を開放しましたので、考察や感想など、Twitterで書けないことがあれば、どうぞ。

あと、私は残念ながら、パンフレットは読めていません。何か間違いや、新しい情報などお持ちでしたら、ぜひぜひ教えてください。

1 Comment

  • Reply
    otr
    2023年3月11日 at 1:41 AM

    海岸でリウ(デュー)からほっぺにキスするシーンがあるが、ポップは男としてのデューが好きなのでポップからは女のリウに口でのキスをしない。(公衆電話では男同士でキスをした)
    水に飛び込んだシーンは2人共半ズボン(学生服)なので、ポップとデューで間違いない。
    そのすぐ後のシーンで手を握り水面に泳いでいく男同士の2人。学生時代に戻っている所を推測して、純粋な2人に戻り、水面に出ようとしている所を見ると、あの場面では死んだが来世に向かって2人で手を繋いで泳いでいる様にも見える。
    と言う憶測となりました。

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